祈祷書の言葉では「愛のない人は主の前では死人に等しい」だ。(P.207) ドキッとし、そのあと、ほっとする。
私は哲学を通して生きる意味を求め、主イエスに出会った。だが頭の中の信仰だけでは「まだ死んだままだ」とヨハネは説く。「キリストの名を信じ、互いに愛し合うこと、これが神の命にとどまることだ」と。(3:23) 「言葉や口先だけではなく、行いと真実をもって愛そうではありませんか」と。(3:18)
どれだけ聖書を読み「深い言葉」や「感動的なお説教」を「言葉や口先」で語っても、身近な家族や信徒や社会の隣人を「憐みの心で」(3:17)、自分の命を差し出すように、愛していないなら、私は「死の内にとどまっている」。「死人に等しい」。ドキッとする。そして十字架のイエスさまを振り返る。
そして「自分は死んだままだった」という真実を悟って「ほっと」する。「私たちの心よりも大きい」神と(3:20)、その霊に生かされたいと願い(3:24)、自分の命を差し出されたイエスさまの愛に生かされ始めるからだ。
「命を捨てる」とは大袈裟なことではない。日常生活の小さな行いの積み重ねだ。その原語は「置く」という意味。「貧乏なきょうだいの前に自分の物を置く」こと(3:17)。きょうだいは愛するためにいる。神を信頼し、自分を自我や自己主張もろともいったん横に置き、その自分を相手の前に置く。相手を信頼し、愛し、自分を相手の命のために使ってもらう。
きょうだいの前に自分を「置いて」与えるとき、愛を知らずに死んでいた自分は生き返る。教会生活 (そしてすべての人間関係)は、きょうだいを愛して本当に生きるようになるための神さまの恵みだ。
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