「復活って教会では言うけど、家に帰れば復活なんて感じられない。教会や礼拝の喜びも忘れる。体調が悪ければ、神さまも、死を超える復活のキリストも遠い。本当は近くに感じたいけれど・・。」
そんな不謹慎な気持ちや祈りをつぶいてよいのが復活後第二主日だ。一週間前、復活の福音が宣言されたにも関わらず、自分の実感のなさから心が暗くなる弟子トマスが、実感のない私たちの暗い心を代弁してくれる。
よく「疑うトマス」と呼ばれるが、彼は冷静に分析して懐疑的になっていたのではない。この人は主イエスと「一緒に行って死ぬのではないか」と言い、分からない時は「分かりません」と素直に認める人物だ。ここでは熱い心で、素直に「主イエスさま、他の弟子たちのように、あなたを近くに感じさせてください」と主の存在感を求めていたのではないか。
実感を求めるトマスに主イエスは答えられ、会いに来られた。会いに来てまず満たされない心に「平和」を宣言された。そして「指を手の傷に当て、手を脇腹に入れなさい」とまでご自分を差し出された。キリスト教の神は五感で復活の恵みを知らせる神だ。あなたが感じるまで何度でも会いに来てくださる神だ。
トマスは自分を追いかけて会いに来られたイエスさまに、愛を感じた。だから実際に触れる前に信仰を宣言した。「私の主よ、私の神よ」。こうして「言は神であった」と始まった福音書を、実感を求めたトマスが「私の神」と締めくくった。
私たちは復活の実感を求めてもよい。求めるあなたに復活の主イエスさまは何度でも会いに来られる。見える形で、または見えない形で、何度でも。どうか私たちの心の目が、会いに来られる復活の主の存在に開かれますように。