迫害と死の恐怖を超えて広がった「イエス運動」の原動力は何だったか。
それは全く客観的な「新しい創造」の確信だ。空の墓で女性は「正気を失い恐ろしかった」程、神の働きを感じた。弟子もら復活した主に出会い「神が約束を成就し、新しい創造が始まった」と身震いし、動かされた。
聖書の神は人間を遠くで見過ごさない。私たちの歴史の中で働く。主はアブラハムに誓われたのだ。子孫イスラエルという特定の民族 (もちろん現代の軍事国家のことではなく聖書の民) とその代表であるイエスさまを用いて「諸国民を祝福する」と。待望されたその誓約を神は復活によって果たされた。復活したのは他でもないイスラエルのユダヤ人、イエスさまだ。そして世界を支配する「油注がれた王」となり、新しい命、新しい時代、新しい創造が確実に始まった。そして信じて主に結ばれた私たち諸国民も、主イエスさまと共に死に勝つ命に与かる。
これは特定の民の「えこひいき」ではない。最も誠実で有効的な人間の変え方だ。例えば、いじめが蔓延する教室や職場に、「イヤだ」と言う勇気ある人がたった一人いれば、全体が変わり始める。イエスさまは、神が自ら一つの民族の一人となり、罪と死の力に対して決定的に言い放った「イヤだ」だ。父なる神はその「イヤだ」を受け容れ、神の民を成就し、信じる人を父と子と聖霊の豊かな命の祝福に入れる。
死に勝つ命は「特定のユダヤ人」であるイエスの復活で始まった。それは「特定の日本人」である私たちを変え、この世界を新しく創造しなおすためだ。
今こそ復活を、新しい創造を信じよう。復活の聖餐で私たちを造り直される。どんなに罪深くても、死が近くても関係ない。新しいイスラエル、天地を繋ぐ復活のキリストの体に、新しく造り直される。なんと嬉しいことか。ハレルヤ、主はまことに復活された!