ウチの食卓はお喋りだ。私がバカ話しをして、息子が一日の報告をして、妻は聖徳太子の様に同時に聞いていることがある。
牧師のくせに私は誰かのことを「知りたい」と思うよりずっと強く「自分を知って欲しい」と願っているかもしれない。それは愛するよりも、愛されたい、という欲望だ。
「私は良い羊飼いだ」と言われたイエスさまは、そんな私たち一人一人の「羊」に「私はあなたを知っている」と宣言してくださる。(ヨハネ10.14) なんという安心、なんという愛。私の性格、弱さと強さ、嘘と真実、過去の過ちと現状、不安と希望・・・主はすべてを知り尽くし、さらに聴き続け、そうしてなお「自分の羊」と呼んで愛してくださる。
「私はあなたを深く知りたい」と主は願われる。「どんな状態か、狼に襲われていないか、愛のない雇い人に捨てられていないか。私の命を犠牲にして守るべきではないか」と。事実そのように羊飼いイエスさまは、私たちが受けるべき「狼」の攻撃を受けられた。罪と病と死という狼の攻撃をすべて受けて死んだ。もう終わった、と皆が思った。
だがイエスさまは自ら「父」と呼ぶ、深く親密な存在によって復活させられた。そして死を超えた復活の羊飼いとして、いま私たちと共にいて、罪と死から守っておられる。
最後にイエスさまも「知って欲しい」と願われる。「羊も私を知っている。」つまり「あなたと私は、私が死んだ命によって固く結ばれた。」これを常に確信していなさい、と。
確信して父と子と聖霊に入ろう。神は互いを知り合う親密さ、「あなたをもっと知りたい」と願われる愛そのものだ。