神学館同期の若すぎるお葬式。最後の聖歌で、私は泣き叫んでしまっていた。すぐ後ろの方も泣き叫んでいた。願いは同じだ。「お願いだから神さま、この人を返してください!!」 叫んで泣いて神に願う。人生にはそんな時が急に来る。
「激しい叫び声を上げ、涙を流しながら」イエスは死から救われることをゲセマネで願われた。ヘブライ書の著者は、この独特の伝承を受け継いだ。そしてこの「泣き叫ばれた」事実が共同体の大きな慰めとなった。「キリストは自ら泣き叫んで苦しまれた。だからあなたが泣き叫んで苦しむとき、共におられる。主はあなたと神を祈って結びつける大祭司だ」と。
「その畏れ敬う態度の故に聞き入れられた」(5:7)と記されるその態度は、神から逃げずに神に願い祈った「従順」だ。(5:8) だが聞き入れられたのはすぐではない。十字架で死んで人類の罪を贖う運命は避けられなかった。私たちが目の前の死を避けられないのと同じように・・・
しかし、泣き叫んでも神に向かい続ける従順を、神は確かに聴き入れられた。復活で答えられた。キリストは、泣き叫びながら人の苦しみを神の愛に結びつけ「完全な者」とされた。(9) それが最も人間らしい人間だ、と。そして神は私たちをも「完全な者」となさる。人を愛して、人と共に苦しむ中で、神は私たちを最も人間らしくなさる。
綺麗事や美しい言葉では救われない「神不在」の夜、荒れた心を「叫び声と涙」に変えて神に献げよう。復活した大祭司キリストは必ずあなたの横で共に叫び、涙し、とりなしておられる。あなたを神に結びつけて離さずに。
もしかしたら、お葬式で後ろで泣いておられたのは、キリストだったのかもしれない。