「パンと魚の奇跡」は食糧が増える奇跡だが、同時に弟子らが変わっていく奇跡でもある。最初は大勢の群衆を養う責任に圧倒されて諦めていた。少年のパン五つと魚二匹が何になろうかと。(6:9) しかし感謝に溢れたイエスさまに命じられて配り始めると、決して尽きずに全員を満足させて、なお余った。弟子らはイエスさまがご自分の無限の命を分かち合う道具となった。神が自分に「出番」をくださる。それはとても嬉しい祝福だ。それに応えたい、と願う。
キリシタン時代、信徒は信仰をこう伝え続けたと帚木蓬生(ははきぎほうせい)の歴史小説「守教」は語る。「あなたもわたしも神さまの手の中の小さな筆。」大きな字ではないが、私たちが小さな筆で小さな日常に神の愛を書き綴れば、確かに飢え渇いた人に届く。
この「神の筆先」の力の源は、しかし、自分の頑張りではない。パウロは説く。「あなたがたは恵みにより、信仰を通して救われた。それは賜物であり、行いによるのではない」(エフェ2:9)。では誰が行う働きか。それが、神だ。神は善を行うために私たちを救い、イエスの似姿に似せて私たちをご自分の「作品」として造り直された(2:10)。神の手の中の小さな筆を使って、神の手が働く。神の行いだ。もちろん愛は強制ではなく、自由に飢え渇く人に仕える。
感謝に溢れる聖餐でイエスさまは語る。「わたしが動かすから、あなたは書いて示しなさい。人生に一点の悔いも残らぬよう、感謝の墨を使い切って書き綴りなさい。飢え渇く人に神の愛を、あなたが書いて宣言しなさい。」
ジョヴァンニ・ランフランコ作 「パンと魚の奇跡」1620-23年アイルランド国立美術館 蔵