今日は福音書朗読そのものが説教だ。各自が神に祈り、主の受難物語に聴き入ろう。物語中に自分はいる。
一言だけでは言い尽くせない力がこの受難物語にある。最初から最後まで一貫するその力。それは何か。
それは一貫した意志だ。主イエスはゲセマネで迷った挙句に父の御心に委ねられた。それ以降は迷われない。弟子らが眠っても受け入れる。ユダが平和の接吻で裏切っても逮捕されたまま。そして(表紙絵のように)人々に引きずられて最高法院へ行き、人間の攻撃性のありとあらゆるものをぶつけられてもそのまま受ける。冒涜罪で訴えたい欲望さえ受け入れた。愛する一番弟子が逃げていくのも受け入れ、他の弟子全員が逃げるのもそのまま受け入れた。あとは物理的にも精神的にも、想像を超える苦痛をただ受けて、受けて、受け続けられた。最後には神と離される、という信仰的苦痛さえ受けて死んでいかれた。
それはすべて神が、それらに苦しむ私たちと一つになるためだ。人と自分への攻撃性、否定性、罪、憎しみ、勝手さ、病的な暗闇、悪と死の力を引き受けて滅ぼすためだ。この一貫した意志を聖書は「愛」と呼ぶ(1ヨハ4:8)
イエスさまは私たちを愛しているからこそ、私たちをむしばむ攻撃性と罪と病と死・・・そのすべてを引き受けられた。そして復活によって新しい命と神の民を創造された。
主イエスと「共に」苦しみつつ、主イエスが私たちの「替わりに」成し遂げられた愛の業を讃えよう。受難の内にさえも。