♪「主われを愛す。」私たちは神に愛されている。だが愛を感じない日もある。「暗闇だけがわたしの友。」(詩88)
自分を神の愛から「引き離す」ものは何か。私は病気と障害の辛さ。または老いや死、別れの悲しみ、人間関係の悩み、家族の破綻、貧困、無理解と孤独、過去の過ちの罪悪感。苦しいときは「主われを愛す」と感じない。
ローマ帝国当局に目をつけられながら伝道し、最後には殺された聖パウロは、自分の苦しみを分かち合う。「苦難、行き詰まり、迫害、飢え、裸、危険、剣」(8:35)。これは誰でも経験する生活の苦しみではない。キリストの福音を伝道する結果受けた苦しみだ。「ご利益は全くない。」
だがパウロは確信した。そんなもの何であれ「主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできない」(8:39)。たとえ死んでも「主われを愛す」。この確信の根拠は復活・昇天した今も「死にさらされたまま」の十字架のイエスさまだ。神はあなたを愛して一人息子を死なせた。命を与えた。愛を与える。だからどんな苦しみも死さえも、神の愛から自分を引き離さない。引き離す苦しみも罪も全て神が既にお受けなさったのだから。十字架の内に、私たちの苦しみは、神の苦しみと愛を知る。
教会はいま疫病と高齢化の危機に面している。いまこそ教会生活の中心に帰り、神に帰り、再出発しよう。信仰共同体の人間的な中心は祈り(礼拝)ときょうだい愛。そしてそれを支える神の愛は絶対だ。十字架を通して私たちをご自分に結びつけ、決して離さない絶対の愛だ。
マサッチオ「聖三位一体」1425-7年、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会、フィレンツェ