お給料を頂くとき「助かります」と言う。実際、生活が助かる。だが同時に「商売牧師・職業牧師ではない」とも思うからだ。信徒は雇用主でもお客でもない。同じ信仰共同体、キリストの体、神の家族として、牧師の生活を助けてくださる。だからこそ心から感謝できる。
パウロはこの「職業牧師ではない」という思いが人一倍強く、給料をもらう「権利」を放棄していた。テント作りで生活していたのだ。(今もとてもよく働く無給の信徒がいる。)
パウロ自身、誠実に働く聖職者(使徒)には経済的支援を受ける「権利」があると力説した。「誰が自費で兵士になるか」(9:7) ではなぜ彼はこの権利を放棄し続けたのか。
それは教会や社会に生きる、貧しく働く人たちと一致するためだ。宗教的にも、経済的にも、力関係でも「弱い」異邦人。彼らを一人でも多く、信仰によってキリストの復活へと、「得る」ためにパウロは権利の放棄を選んだ
パウロは病人や「弱い人」と同じ低さで生きたイエスさまを追いかけて生きている。強くて豊かな人から嫌われても、自分の権利さえ捨てても、神の国の「奴隷」となり、「愛に縛られて」、徹底的に弱い人に仕える。愛さずにはおられない。この生き方が真っ直ぐに十字架へと降って「全ての人の病をその身に担った」のだ。(イザヤ53
そして福音とは復活。あなたを得るために、生きる権利さえ捨てたキリストは復活し今ここに、いる。聖餐を祝う信仰共同体の真中で語りかけられる。
「こうして私はあなたを得た。あなたも弱い人を得なさい。弱い人になって。」
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ジョルジュ・ルオー「盲人を癒すキリスト」