奴隷の身分はそのままに・・・。これを利用して「聖書も奴隷制を認める」と悪い奴隷貿易者らは主張した。だがパウロは「自由になれるなら自由になりなさい」とも言う(7:21原典)。神は人を虐げる社会を変革されるお方だ。
だからパウロが戒めたのは「こんな自分ではなく、あんな自分になりたい」という落ち着きのなさだ。結婚か独身のままか、ユダヤ人か異邦人のままか、自由か奴隷のままか、どうにか違う自分になろうと、焦ってあがくな、と。
私の場合「〇〇先生はこうしてくれました」と信徒が描く「良い牧師」になりたいと思う。自分自身の基準での「良い牧師、司祭、霊的指導者」になりたいとも思う。そんな自分なら良い仕事ができる。神の良い僕であれる、と。
そんな「魂の落ち着きのなさ」をパウロは一蹴する。「気にしてはいけない」(7:20)、「人の奴隷となってはいけない」(7:23)、「ただ召されたときの状態に留まれ」(7:20)と。 神が最初にあなたを受け止め、愛を語りかけ、呼び出した、そのままのあなた自身に「留まれ」と。神の前には罪であり、しかし主イエスの命によって「神の愛する子」とされた自分自身から離れるな。人の奴隷になるな。神はそのままのあなたを使ってご自分の栄光を表される、と。
これは「置かれた所で咲きなさい」であり、「見よ、野の花を・・・神はこのように装ってくださる」だ。神に召されたそのままの自分自身に留まれば、神はあなたにしかできない花を咲かせてくださる。豊かに美しく、その場所で。
コロナ禍であってもなくても、み前の自分に留まろう。
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