しかし神が全能であるのは、愛を伝えることにおいてだ。言葉になりきらない態度ではなく、永遠に残る言葉で明確に父は宣言する。「あなたは私の愛する子、私の喜び。」
ここにキリスト教の中心がある。洗礼は「信徒や教会員になる」という自分の心の中だけの孤独な出来事ではない。洗礼は、キリストに結ばれたあなたに、「あなたは私の愛する子、私の喜び」と父が愛を宣言し、その日からその愛の宣言を聴き続ける関係の始まりだ。
この世に生きる私たちは、自分自身を見ればとても愛と喜びの存在とは言い難い。しかしキリストの内に留まる限り、父は私たちをと呼び続けられるのだ。
キリストとは本来「油注がれた」という意味で、洗礼とは「浸す」という意味だ。それは、ヨルダン川に全身浸かるように、父の愛にどっぷり浸かり、びっしょりになり、自分が歩いた跡や、触れた人や時間すべてが父の愛で濡れてしまうような、父の愛に浸かって生きる生き方だ。その愛は自分の管理を遥かに超えてしみ出していく。イエスさまはそう生きられて、そう死なれた。そしてこのお方の復活は、この父の愛が死を超えて、永遠に新しい命まで注がれていることの証拠だ。
そして顕現とは、この世が神の真実に開かれ、心の目が開かれ、父の愛に浸されている自分の姿が現れること。どれだけ失敗と嘘と罪を重ねても、神と面と向かう瞬間や、死や命の瞬間に、父は必ずあなたに宣言される。「あなたは本当に私の愛する子、私の喜び。
(「キリストの洗礼(マルコ1:10)」ジュリア・スタンコバ作、2017年、キャンバス地、73 x 50 cm。ソフィア、ブルガリア.)