あなたが満たされるなら、わたしも満たされる -- ( ノリッジのジュリアン「愛の啓示」第22章 )
子供の頃、母のお皿はいつもカラになった。「おかわりいらんか、唐揚げ一個あげるわ。」自分のお皿から私にくれるからだ。しかし不思議と母は喜びに満ちて笑っていた。
中世英国のジュリアン(1342-1416年)という神秘家は、神の語りかけをこう聴いた。「あなたが満たされるなら、わたしも満たされる。」神は満ち溢れる「愛」そのものであり、愛が喜び溢れるのは、愛する相手が満ち溢れるときだ。
神は満ち溢れて人間となり、私たち人間を「恵みと真理」で満ち溢れさせる。(ヨハネ1:14) キリストの受肉の内に、神と人間は競合しない。「神が喜ぶために人間性は抑えるべきで、人間性が栄えれば神は喜ばない」と思うのは間違いだ。それは無限の愛である神を、限界ある人間の思考に引き下ろすことだ。神の受肉とは「本当は好まないが人間を救うために神が仕方なくとった」例外的な奇跡ではない。受肉は人間の歴史への神の乱入ではない。受肉の神イエスこそ、人間の歴史を照らす中心だ。
受肉は神の本質の必然的な現れ(啓示)だ。つまり神は、あなたという人間が喜びで満ち溢れることを自らの喜びとされる。人が神で満ち、神は喜びに溢れる、いわば神と人の「ウィンウィン」、それが受肉。イエスが100%まことの神で100%まことの人間になられたことの深い意味だ。
お皿がカラになるように、神はご自分から溢れ出して人間となり、十字架と復活でご自分の命を与え、私たちを喜びで満たされる。そして喜びに溢れて笑っておられる。
ステンドグラス「歌う窓,Singing Windows」タスキーギ大学(Tuskegee University)礼拝堂、1967年、米国アラバマ州。