十人の乙女の譬え、「ロッサーノ福音書」挿絵より、6世紀、ロッサーの、イタリア |
「なんていじわる!」と思った。みな同じように花婿を待っていたのだ。到着が遅れ、みな同じように眠りこけたのだ。だのに目覚めたら、ともし火の油がない。「分けてください」と願った。しかし、なんということか断わられたのだ。「分けてあげるほどはありません。」 そして買いに行っている間に、半分が婚宴に入り「戸が閉められた。」なんて排他的な! 「開けて」とお願いしても「お前たちを知らない」と主人。いじわる!
悪夢のようだが、冷静になって自分と神の関係を省みると思い当たる節がある。祈りの生活だ。どれだけ霊的な本を読んでも、指導者に会っても、お説教を聞いても、自分が「奥まった自分の部屋で隠れたところにおられる自分の父に」祈らなければ、神との関係は何も育たない。(マタ6:6) 私自身、どれだけ人にむけて説教して福音を宣言しても、自らそれに人生を掛けて、祈らなければすべては無駄だ。
人の祈りを助けるのも同じ。礼拝や対話、共に祈ることは役に立つ。しかし最後はその人自身が自らの心の全てを注いで神に祈らなければ、主を喜び迎えられない。信仰育成とは相手が自ら祈るための助けになること。
この「神との祈りの関係」が人に「分けてあげるほどはない」もの。魂だ。「代わってあげたいけどあげられない」ものだ。
しかし、人には無理だが、唯一「代わってあげられる」のが十字架の主イエスさまだ。祈りを忘れて神から遠く離れた私たちの死の暗闇を、主は代わってくださり、ご自身の祈りのうちに私たちを含めて、新しい命に甦られた。「主の祈り」を共に祈ってくださる復活のキリストこそ、祈りの土台、根源、力だ。
「自分はダメ」と諦めるのは早すぎる。主はまだ来られていない。時がまだある今、祈ろう。思いと言葉と行いによって、祈ろう。