アレクサンドル・イワノフ 「主の変容」 1850年、ロシア |
これは心からの感謝か、それとも皮肉か。解釈がわかれます。コリントの信徒に対してパウロは批判が沢山あるのです。まず「アポロ派、パウロ派」と派閥争いをする人(1:10)。また自分の演説の「言葉」の力を誇る人。そして神秘的な「知恵」を持ったから「この世の倫理を超越した」と思い込む人。私なら、怒りか皮肉の言葉を向けたくなります。
しかしこれは、単純な感謝ではないとしても、心を尽くした上での感謝です。批判すべきことは沢山ある。それはきっちり伝える。しかし、または、「だからこそ」、今一度私とあなた方の関係を省みれば、それはイエスさまから恵みを受けて始まったもの。父なる神はイエスを通して救いを始め、私とあなたに恵みを与え、「最後までしっかり支えて」、「主イエス・キリストの日に」完成される。私たちが神の歴史の一部であることを「いつも私の神に感謝」するのです。
教会の「間違っている人」「キライな人」について神に感謝する。これが「やせ我慢」でないのは、パウロが「主イエス・キリストの現れを待ち望んでいる」からです。過去の歴史で実際に働いた神が、イエスさまが来られる日、必ず全ての信徒を完成される。「非の打ちどころのない者にしてくださいます」(1:8)。
逆に言えば、終わりの日まで私たちは不完全です。完全な教会や信徒聖職を求めなくても良いのです。私もあの人も最後には、主と共に変容します。十字架の主と共に、復活の栄光に変容していきます。だから私たち人間は、誰も思い上がる必要はなく、過去と未来の恵みを神に感謝するだけです。目を覚まして感謝している(マコ13:37)。それが主を待つ姿勢です。
主を待ち望む今朝も、父にすべてを感謝しましょう。感謝できない自分さえ、主と共に、父にお献げしましょう。