ローマ帝国アッピア街道沿いに処刑させられた反乱奴隷。映画「スパルタカス」(1960年米国) |
これは決して「信仰は私的なもので、政治や社会に関わるべきではない」という個人主義ではない。主イエスは「神の国は近づいた、悔い改めよ」と教えた。政治も社会も含めたこの世に、神の支配をもたらすために来たのだ。
当時のユダヤにはいつも革命の火種がくすぶっていた。主イエスの幼い頃(AD6年)にも「ガリラヤのユダ」がローマ帝国の徴税に怒って反乱を起こして死に、その息子らは磔刑に処された。十字架は見せしめの処刑方法だ。 この革命の空気感の中、イエスの敵は議論で罠を仕掛けてきた。「皇帝への納税は律法に適うか。」適う、と言えばモーセ律法による革命を待ち望む支持者たちを失望させる。悪い、と言えばローマ帝国への反逆罪だ。 主イエスはまず銀貨を論敵に出させ、刻まれた皇帝の似姿と「神の子、大祭司」の記名を示す。この銀貨を持つ敵は既に「偶像崇拝者」というわけだ。そして「皇帝のものは皇帝に返せ」。これは「皇帝は帰れ、俺たちは俺たちだ」と革命的にも取れるし、「納税せよ」ともとれる。そして「神のものは神に」。まるで神は皇帝を超えると言うようだ。皇帝のものは全て、創造主なる神のものだ、と。 事実、ナザレのイエスも革命に死んでいった故郷の人々と同様に十字架刑で殺された。しかしこの革命の方法は暴力と死の力によるものではない。非暴力で暴力を滅ぼし、創造主の新しい命で神の国を打ち立てる。復活による神の国の革命だ。 神の命と愛で周りの社会を「支配」して、神にお返しして、神の革命を完成させよう。 |