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ジョン・エヴァレット・ミレー図案、ディエル兄弟木彫り「婚宴の譬え」 1864年、メトロポリタン美術館、ニューヨーク |
「なんでぇ不景気なツラしやがって」と神学生の頃に、言われたことがあります。
それに比べて私の母はいつも明るく喜ぶ顔を見せてくれます。私も息子には自然とそうなります。それは子供の存在自体を喜びとしているからでしょう。
「礼服の譬え」の礼服は「喜び」と解釈できます。「王が王子のために開いた婚宴」とは、父なる神が息子の存在を喜びとして始めた新しい契約。「招いたのに来なかった」のは古い民。代わりに来たのが「善人と悪人」つまり新しい民、教会です。
そこに王が来て客の中に「礼服」を着ていない人を見つけ、怒って暗闇に捨てます。悪人でさえ礼服を着ていますから、「急だったから」という言い訳は通じません。恐ろしい譬えです。ですがこの神の審きの厳しさは、「あなたに変わって欲しい」という神さまの切実な願いの現れなのです。
それでも「主において常に喜びなさい。」(フィリピ4:4)と何度言われても無理、と諦めて喜ばない自分も確かにいます。しかし主キリストは、この「喜べない」心を引き受けて死に、復活し、喜ぶ心に造り変えられるのです。どんなに苦しくて、悲しくて、辛くて、自分の中には何の喜びを感じなくとも、その前では必ず顔がほころぶ。そんな存在です。どんな悪人をも愛して、ご自分の婚宴に呼ばれる存在です。
この喜びの根拠は私ではなく主にあります。主は、私の存在を、ご自分の喜びとされている。主は、私たちのパンを喜んで受け、感謝し、ご自身の体になさる。自分の小さな不景気ではなく、主の喜びを選び取りましょう。励ましあって。