「三人の使徒の胸像」1490年頃、オーバーライン地方、 |
何もかもうまくいかず「婚約破棄」をしたあと、私は毎晩飲み歩いていた。自暴自棄だった。そんなある朝、それまで何も言わずに見守っていてくれた母が、私に立ちはだかって叱り飛ばした。「いつまで悲劇のヒロインしてるんや、しっかりしい。」 私は「幸せになれる」という強い意志を感じ、立ち上がっていった。
エゼキエルが語りかけた民は自暴自棄だった。主を捨てた結果、国も神殿も滅ぼされ、異国に拉致され帰郷の望みも絶えた。そんな民に神は、預言者によって、何度も何度も、希望を語りかけた。「立ち帰れ、立ち帰れ。お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか!」
それは傷つけられた人が傷を見せて「傷ついた。謝ってほしい。悔い改めてほしい」と言うのと少し似ている。もちろん神は人のように弱く傷つかない。神が傷つくのは唯一、強く人間を取り戻すため。神は人となって十字架で傷つき、その死の姿で私たちに忠告された。「もう悲劇は終わりにしよう。希望をもって帰って来い。一緒に復活の命を生きて行こう。」
だから、この主イエスが結ぶ兄弟姉妹は、互いに忠告し合い、共に神に帰る共同体だ。罪の中にいる兄弟を、神が「得る」ように忠告し合う共同体だ。(マタイ18:15) 人は一人ではクリスチャンになれない。