ジェームス・ティソ「ぶどう畑の息子」ブルックリン美術館 |
暴力的な譬えです。映画なら年齢制限でしょう。できれば避けたいものです。「神は暴力的ではないはず」と。
ですが主イエスにとって暴力は逃げようのない現実でした。主はこの直前に「上洛」し、神殿で暴れ、境内で教えています。指導者が策略する暴力的な死は、刻一刻と近づいていました。そんな中で、主はこの譬えで「なぜ自分はいま殺されにいくのか」を理解し、語られたのです。
譬えの主人はもちろん神、ぶどう園は民、農夫は指導者、僕は預言者たちです。そして収穫は、主との誠実な絆の喜びをこの世のすべての人と分かち合う祝福です。
主は語られました。「収穫は民が分かち合うことだ。だのにお前たち農夫は独り占めしようと、遣わされた僕たちを殺した。そこで主人は『最愛の息子なら敬うはず』と息子を送った。だのに農夫らは息子も殺す。主人は怒って農夫らを殺し、収穫を納める他の農夫に貸すだろう。」
こう語って殺されにいくイエスさまは、暴力に臆さず、無防備に息子が一人で直接会いに行く、という「傷つく誠実」を最後まで貫きました。そして暴力をその身に受け、民の不誠実の責任を全て一人で取られたのです。
この主の誠実を「良し」とし、父は主を復活させ、新しい神殿の「角の親石」とされました。強欲な古い神殿は滅ぼされ、キリストを分かち合う神殿、教会の兄弟姉妹が生まれたのです。表紙絵のように、殺され捨てられたイエスさまこそが、私たち新しい神殿の角の親石となったのです。
祝福をこの世の人と分かち合いましょう。今度こそ。