ヤン・ファン・ヘメッセン作, 「情け容赦のない僕の譬え」、1556年、ミシガン大学美術館、米国 |
夫婦では些細なことで不機嫌をぶつけ合い、教役者同士では赦しあえず、傷つけられた過去の遺恨を捨てきれない私は、こう祈る。「こんな私をお赦しください。」
だがイエスさまは安易な祈りを拒まれる。「心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父も同じようになさる」(18:34) 驚きだ。 え? 神の赦しは無条件じゃないの?
これは「救いを得るのは人の行いか、信仰か」という抽象的な問題ではない。日常の実践の問題だ。主は私たちに自分で精一杯な人間ではなく、少しずつでいい、人を赦せる器の広い人間に変わって欲しい。天の父と「同じようにする」ことが、祈りの成就だ。祈りが成就するのは願いが叶った時ではなく、そこに現れた御心にそうように私たち自身が変わった時だ。願った赦しを受けて、それを実践できた時だ。
主の祈りはこうだ。「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目がある人を赦しましたように。」目の前の人を赦すことが、そのまま神への赦しの祈りになる。「赦すことにより、わたしたちは赦され」の聖歌417番は、真剣な実践を歌う。
主は「赦さない家来の譬え」で赦しの実践を促す。家来の負債は6000億円だった。それは自分も妻子も身売りして奴隷になる額だ。だから必死で願った。だから主人は帳消しにした。その安堵と感謝は無限だった。そしてその必死な願いは、同僚の100万円の負債を帳消しにすることで成就するはずだった。しかし実践を忘れ、赦しは成就しなかった。
負債を帳消しにする十字架から主は願われる。「赦しの願いを成就させよ。赦しの実践の只中で。」