息子が不登校になったとき、「原因探し」に終始しました。本人の障害、学校の対応、親の失敗。辛かったのは(善意から出る)親族からの「育て方」批判でした。将来の新しい祝福が望めず、夜道を歩いては涙したものです。
「先祖が酸いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く」(エゼ18:2) つまり「子の苦しみは親のせい」。国が滅びて敵国に連れ去られた「バビロン捕囚」の民は59年間、このことわざで自分たちの暗い状況を諦めていました。解放されて故郷に帰ることはない。新しい祝福などない、と。
そんな民にエゼキエルを通して主は語りかけました。「二度とこのことわざを口にするな。わたしは一人一人を見つめ自由を与える。だから新しい心と霊を作れ。お前たちは、立ち帰って生きよ。新しくなれる!」(18:3,4,31-2)
「新しくなれる!」そう呼びかける神の言葉を生きて示されたのがイエスさまです。物理的には故郷への帰還を果たしたものの、民は未だ外国に虐げられていました。だから油注がれた王「キリスト」への待望は最高潮に達していました。そこに洗礼者ヨハネとイエスさまが来て「新しくなれ、神に帰れ」と呼びかけました。「悔い改めよ」とは「反省しろ」ではなく、「喜べ、新しくなれる」という福音です。
徴税人や娼婦はどれだけ嬉しかったか。「お前は罪人のままだ」と断罪され諦めていたのが、「新しくなれる」と言われて、変わりました。古い自分に死んで新しい自分に生きる、イエスさまの十字架と復活に与かる生き方に。
過去や家族の関係を超えて、神は一人一人を新しくされます。