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マルク・シャガール「苦しむエレミヤ」」 1957年、銅版画手塗り水彩、 マーケット大学ハガティ美術館、米国 |
体でも心でも、人は痛みに弱い。痛むと私たちは必死に祈る。「神様、この痛みを取り除いてください。傷を癒してください。」 それでも癒されない時は、神様を責めたくなる。そのあとは神や祈りに無関心にさえなっていく。
「サタン、引き下がれ」「人でなく神を思え」「命を失う者はそれを得る」(マタ16:23-25)、と強くカッコイイ言葉を残されたイエスさまは、逃げも疑いもせず、確信に満ちて十字架の道を進まれたのだろうか。
いやそうではないだろう。主イエスさまはエレミヤのように「できればこの杯を取り除いてください」と痛みが止むことを祈り、癒されない最期には「わが神わが神、なぜ?」と、神を疑い責めて死んでいかれた。
それは主イエスの内に100%人間らしい人間となられた神が、痛みが止まず傷が癒えない私たち人間と「共にいて助け、救い出す」ため(エレ15:20)。イエスさまの傷はご自分のではない。イスラエルの民と私たちの傷だ。神への無関心によって自分らを傷つけた痛みだ。それをご自分の傷として痛まれる。
全ての人の痛みと疑いを引き受けたイエスさまへの答えが、復活だ。神は「必ず救い出す」約束を、この世的な癒しを超えて成就された。復活こそ癒しだ。どんな傷も癒され、痛みもない、命の喜びだ。
十字架の道は我慢の道ではない。嘆きと疑いが、約束成就の信頼に変わっていく、主と共に歩む道だ。