雨の後のガリラヤ湖畔 |
皆様はどんなとき「むなしく」なるでしょうか・・・? 体の衰えや死を感じるとき、努力が実らなかったとき、教会の10年後や、自分の伝道をは思うとき・・・。
イエスさまの活動も、初代教会の宣教も「むなしさ」との戦いでした。「種まきの譬え」後半の解釈では人間の心(土地)が反省されます。ですが譬えの本来の主題は神(種)の実現力です。「何も実らないむなしいときもある。だが神の言葉は必ず実る。だから成就を信じて、絶えず宣教し続けなさい」と。
イザヤ55章も人間の「むなしさ」への神の答えです。「創造主が降らす雨と雪を見よ。一見むなしく降るようで、何も実らせずに天に帰らない。大地を潤し、植物を芽生えさせ、実らせ、人に食物と更なる種を与える。神の言葉も同じ。人を赦して愛して再び神の子にするという神の言葉を、わたしは必ず実現させる。雨粒を見るように、神の言葉を信じよ。」
イエスさまはその通りに生きられました。「初めに言葉があった。」 彼こそ「わたしはあなたを愛している」と神が人に送った愛の言葉、その表現です。
この愛の言葉は拒絶されました。十字架につけられ、砂漠の雨の様に「むなしく」終わった、、、ように見えました。しかし復活して私達を赦し、「アッバ、父よ」と神に呼ぶ神の子として、実らせて下さった。
「あなたは愛されている。」この神のメッセージを伝えよう。むなしく天に戻らず、必ず実を結ぶ雨粒のように。