「毒麦の譬え、刈り入れの天使」ワシントン・ナショナル大聖堂、米国。Fr. Lawrence Lew OP. 2016. Flicker |
洗礼と聖餐は神のしるしだ。御国の証拠だ。終わりの時の予兆だ。確信をもってこの祝いに与かろう。
しかしだからと言って私たちは洗礼と聖餐を受けない家族を「敵、悪魔」などとは呼ばない。心のどこかで信じている。「今の様子は最終ではない。人の理解と時間を超えた終わりの時には、神の子になるかもしれない。」だから教会は未信徒の葬式も行う。
確かに絶対的な悪はこの世に存在する。虐殺、虐待、強姦。イエスさまはそれを「敵、悪魔」と呼び(13:28,39)、命がけで戦った。神の審きは絶対だ。
しかし人の判断は神の様に絶対ではない。誰かを悪人として断罪すると間違ってしまう。毒麦は良い麦に似ていて、抜こうとすると一緒に良い麦まで抜いてしまう。だからイエスさまは言われた。「終わりの時、刈り入れるのはあなたではなく天使だ」。
神は「大いなる慈悲をもって治められる」。(知12:18) 本当は良い麦なのに悪い麦に見える人が、正義を振りかざす「弟子」に抜かれてしまわないように神は守り抜き、良い麦の実りを待っておられる。
神は十字架で、人間の間違った断罪を全て引き受け、毒麦に見える良い麦一人一人を守り抜かれた。そして復活で、良い麦の初穂を実らせ、私たちが続くのを待っておられる。終わりの時は近い。
善悪の判断は神に委ね、目の前の人を「神が守り抜く麦」として敬おう。その敬意が、神のしるしだ。