彫刻「預言者エレミヤ」Tamar HaYardeni |
結婚後に「こんなはずじゃなかった」とお互いによく思ったことだ。前は魅力的に誘惑してきたくせに。
ここの「惑わした」は男女関係で「誘惑した」の意味だ。預言者は神に「結婚詐欺のように誘惑し、だまし、たぶらかしたな」と恨み辛みをぶつけている。
「わたしがあなたと共にいるから」と主に約束されてエレミヤは預言者に召された。しかし「主に帰らねば、国は滅びる」という審きの言葉を伝えては、権力者らに捕らえられて拷問される。怒って当然だ。
私たちの信仰や教会生活でも「こんなはずじゃなかった、だまされた」と失望し怒ることは多々ある。
だが神の召命を捨てようとしても「主の言葉は骨の中で火のように燃え上がる」(9)。自分は神に引きつけられ、捕らえられ、一体となり、既に変えられた。だから「誘惑した」神と共に、信仰と教会生活がどんなに都合が悪くても、最後まで歩き通すしかない。それが預言者の、また全ての預言者を成就するイエスさまの、そして私たち信仰者の生き方だ。
イエスさまも洗礼で、父なる神の愛に「誘惑」されて働き始めた。だが行き着いた先は、民と友に拒絶され、父にも沈黙される十字架の失望だった。「神よ、なぜわたしを見捨てたのか」。しかし父は誘惑したまま終わらなかった。み子を復活させ、最初の誘惑を、最後は尽きぬ命と愛によって成就された。
あなたを誘惑した神は、必ずあなたを成就する。