微笑む神の似姿
「我々にかたどり、我々に似せて人を造ろう」創1:26
息子が不登校だったとき、食卓でよく冗談をいった。どれだけ外で辛くても、家の中では少しでも笑って欲しかった。今でも食卓の団欒、特に理由も言葉もない微笑みが好きだ。神さまは人を笑顔にする存在だと信じている。
中世ドイツの説教者エックハルトは三位一体をこう譬えた。「父は子に微笑みかけ、子は父に微笑み返す。微笑みは親しみを、親しみは喜びを、喜びは愛を、愛は人格を、人格は聖霊を出でさせる。」
私たち人間は微笑み合う「三人一体」の神の似姿だ。私たちの本性は苦しみでも悲しみでもない。微笑みだ。人が神に微笑みかけられて笑顔になり、神に微笑み返すと、その人の内に「キリストが生まれる」。自我が死んでキリストが自分を生き始める。
ルブリョフのイコン「至聖者」は神の微笑み合う関係を表している。食卓のこちら側は空いていて、父と子と聖霊はそこに私たちを招いておられる。それが聖餐だ。罪を懺悔して聖卓に近づき、犠牲の子羊であるキリストを食して、私たちは変えられていく。神の微笑み合う関係に入れてもらい、「暗い罪人」から「明るく微笑む神の似姿」に変えられる。
ただし、この食卓への入り口は、机の前方の「小さな長方形の入り口」だ。これは殉教者の遺物入れだ。私たちは自分に死んで始めて、微笑み合う三位一体の関係に与り、その似姿になる。「おいで、わたしの愛する子。あなたに笑っていて欲しい。」