「ぶどうの木、キリスト」アンジェロス・アコタントス作、 16世紀、ビザンティン・キリスト美術館、アテネ |
自分らしい自分?
「あなたがたはその枝である」ヨハネ15:5
集まることができない今、私の信仰は教会共同体を渇望している。共に祈る兄弟姉妹を、共に神の言葉を聞く会衆を、そして聖卓を囲む神の家族を。
主イエスは言われた。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫・・・あなたがたはその枝である。」これを聞くたび、肩の力が抜けて嬉しくなる。主は言われる。「自分だけで生きようとしなくていい。木であるわたしが、枝であるあなたを生きている。あの枝も、この枝もわたしが生きている」と。
「まこと」とは「真実」だ。誰にも自分にも嘘をつかなくて良い、真実の、自分らしい自分。それになるには自分だけではなく、キリスト共同体が必要だ。
そしてキリスト共同体こそ「まこと、本当の」ぶどうの木だ。神の民イスラエルはぶどうの木に喩えられてきた。だがこの民は神の子を受け入れない「ニセのぶどうの木」だった。だから神の僕イエスさまは、一人で全てを背負って神の民イスラエル、本当のぶどう木になられた。そしてその枝である私たちも、アブラハムの約束を引き継ぐイスラエルとなった。
だから「自分らしい自分」とは、神の歴史と無関係に、現代で空想する存在ではない。世を救うために神が選んだアブラハムの子孫としての自分だ。時代を超えてイエスさまが繋ぐ、神の民としての自分だ。
「あなたは時代を超えるわたしの枝。あなたを生きているのも、あなたの実を結ぶのもわたしだよ。」