子や孫を信仰者に育てるのは難しい。強制すれば嫌がる。第一世代が自ら経験した信仰を、第二第三世代は同じように経験していないからだ。
しかしそんな第一世代も、はじめは信じていなかった。必ず教会の誰かから受け継いだ。それがたとえ一人で読む聖書でも、知らない礼拝でも、知人でも、それは主の復活を証しする教会の一部だ。
使徒トマスはそうして信仰を受け継いだ私たちの最初だ。彼は遅れて来た。一週間前の復活日に主イエスが教会共同体の真中に立たれた時、彼はいかった。復活信仰に出遅れた。だから彼は他の弟子らの信仰を嫌がった。「私は決して信じない」と。
しかし次の週、トマスに現れた復活のイエスは「信じる者になりなさい」と命じられた。この一言でトマスの心は開かれ、変容し、信じた。彼は主の傷に手を入れることなく信じたのだ。そして今、目の前にいる復活の主を「心で見て」告白した。「わたしの主、わたしの神よ。」信じる心で見たから、トマスは他の弟子らの最初の復活体験に追いついた。
信じる心で見るなら、教会はすべて復活の主を現す徴(しるし)となる。聖餐、洗礼、礼拝堂、聖書、祈り、、、全ては私たちの真中に立つ主を現す。
信じる心で見るなら、復活の主が見える。そうして変えられた私たちが、今度は、子や孫に復活の主を見せる教会の道具にされていく。喜びの道具だ。