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紀伊半島水害で断水したとき、男らは殺気立って水道局の役人に詰め寄った。「給水車を出せ!」
同様にイスラエルの民は殺気立ってモーセに詰め寄った。「飲み水を出せ! 出エジプトは砂漠で殺すためだったのか! 主は我々の間にいるのか。」 民は主と、争い(メリバ)、試した(マサ)。(出17:2,3,7)
「試し」は「祈り」ではない。「あなた」と神に呼びかけず、「ください」と求めもしない。自分を中心に据え、神とは距離を置き、ただ渇きを潤すために神を使う。まるで蛇口を捻って自分で水を飲むように。
だがサマリアの女のように、主が目の前に存在すると、もう距離を置いて主を試す余地はない。「あなたとわたし」の関係で語り合い、求めるほかはない。
そこでは主ご自身が「水を飲ませてください」と願う。十字架上の「渇く」と同様、主は民の「しかたない」程の渇きを自ら受けられる。渇きを潤すためだ。
だから女は主に引き寄せられ、求める。「その永遠の命の泉の水をください」(ヨハ4:15) 試してはいない、祈り求めている。そして魂を潤す「霊と真理」を飲まして頂き (4:24)、町に宣教に出かける(4:28)。
渇く私たちはつい神を試してしまう。だが十字架上で自ら渇かれた主は語る。「試してなんかいないで直接わたしに求めなさい。『飲ませてください』と。そうすればわたしがあなたに飲ませてあげるから。」