そこにいるだけで
「祝福の源になるように」創12:2
子や孫、恋人や伴侶はただそこにいてくれるだけで良い。何もしなくてもただその存在が嬉しくて、楽しくて、平和で「祝福の源」だ。特に孤独な時は。
そして「あなたもそんな祝福の源になるように」と神は人を祝福される。アブラハムの子、神の子キリストに繋がれたあなたは、神の祝福の源とされる。なんと嬉しいことか。こんな弱くて暗い自分が、、、。
誰かの祝福の源となる。そのためにあなたは神に選ばれ祝福された。これが正しい選民思想だ。他民族や他宗教を見下すのではない。逆に、その人に仕えることで、その人にとって「他の誰でもない、あなたが祝福の源になるように」と神は望まれる。
聖書の神は多くを救うために一人を用いる神だ。祝福は人を変える。「自分で判断する」アダムの呪いを、神は十字架で引き受け、呪い返さず逆に祝福し、復活によって新しい人に造り変えられた。
大斎と受難の旅は、呪いから祝福の源へと変えられてい旅だ。自分の救いは、誰かにとって祝福の源となること。不平不満、怒り、恨みをぶつけることを止め、逆にその人に対する祝福の源になろう。
「人を神は祝福する。私たちはその道具。」この信念の有無によって宣教は始まり、宣教は冷める。人の祝福を祈り、自分の存在を与え、神に人を招くとき、祝福の聖霊はそこに働く。ただそこにいるだけで。