一人の従順によって多くの人が正しい者とされる。 (ローマ5.19)
大斎の始めの使徒書は救いの歴史のスケッチを描きます。罪とは何か。救いとは何か。これを個人的に「わたし自身のこと」として深く知り、信じることで、実際に人は救われます。
旧約のアダムの物語は遠い昔話ではなく、わたしたち人間の罪な根本的姿勢を表しています。アダムはわたし、わたしはアダムです。神の命の息によって生かされ、働く農地と水、糧となる木の実、また生涯の伴侶が与えられ、そして神への忠実を守る自由が与えられていました。
しかしアダムは悪魔の誘いにのり「善悪の知識の木」を掴みました。「神のようになろう」としたのです。「わたしが神のようになって、人生を希望通りにしたい」。この神への不従順が、わたしたちの根本にあり、人が死ぬ理由なのです。
福音書で試練を受けるイエスの姿は逆に、わたしたち一人一人の救いを示しています。命そのものである神に従えなくなったわたしたち、アダムをその身に背負い、その分まで必死に従おうとされます。「神の子なら、、、」という不従順への誘いを振り払い、一人の人間として父に従順を、死に至るまでの従順を尽くされました。
それはあなたのためでした。イエスの従順の内に、あなたの神への不従順が癒され、今度こそ本当に、命の神に従えるようになったのです。