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主イエスは教えられた。「あなたたちは地の塩だ。あなたたちが他の存在に塩味をつける。逆ではない。塩気を失えば自分ではなくなる。塩気を保て」と。 (マタイ5:13) 神の民の自分らしさとは、何か。
それは「喜び」、紀元前7世紀の預言者ハバククは言った。ただしこの「喜び」は順風な人生の充実感でも、平和な社会の幸福感でもない。時代はバビロニアの王ネブカドネザルによる戦争と虐殺と捕囚の時代。神の都エルサレムも攻め込まれ、国は今にも滅びそう。それも民の罪に対する主の審きの「御業だ」と信じた。(3:2)
花も実も、収穫も食物も失い、羊も牛の命も絶えた(17)。「しかし」だ。「しかし、わたし主によって喜び、わが救いの神のゆえに喜ぶ。」(18) 喜びの塩気はこの世のどんな存在をもその源としない。この世を超えた自分らしさの根源、つまり神に由来する喜びだ。「神に従う人は信仰によって生きる」(2:4)
ハバククは神殿で聖歌を捧げる中で、この不思議な喜びを知った。(3:1,19) 神を信じて捧げる礼拝は喜びという自分らしさを人に与えて、人を変える。
主イエスさまは、裏切られて殺される前夜、弟子らと感謝の晩餐を捧げ、歌って礼拝した。死に四方を囲まれても、絶望の淵にあっても、父の御心を信じた御子は、この世を超える不思議な喜びを失わなかった。これが愛する父の御心なら自分は喜ぶ。この喜びを失うなら、自分は自分を失うのだから。
苦しいからといって喜びを失うわけではない。イエスと共に父に歌うことこそ、喜びという自分らしさだ。