なんと安らかな逝き方か。自分はどうだろうか。
家族に死が近づくと、つい私たちは死の現実から目をそらす。「少し回復した。まだまだ死なない。」それは「死んで欲しくない」という自然な願いからだ。
死の受容。アタマでは分かっているのに心はそれを否定している。本人の方がよく受け容れていることがある。多くの葛藤と祈りと和解を経て、死を受け容れ、感謝に至る人は安らかな死を迎える。「主よ、私は確かにこの人生であなたの恵みと赦しと救いを見た」。それには主の恵みを見る「信仰の目」が要る。
老人シメオンは死を待っていた。だがそれは「お迎えを待つ」という暗い姿勢ではない。「自分が死を見る前に必ず、主が油注いだ救い主を見る」(2:26)と自分に言われた神の言葉を信じて待っていた。
そこに若夫婦に抱かれた救い主イエスが神殿に来る。「あなたたちが待望している主は、突如その聖所に来られる」(マラキ3:1)。私たちも、待望する主を見るのは、他でもない、聖餐を捧げる礼拝堂でだ。
老人は幼子を抱き、喜びに溢れて賛美する。「ずっと信じて待ってきた日々が今ここに満ちた。私はこの目で救い主を見ている。剣で心を指し貫かれるような痛い十字架の犠牲をも払ってくださる贖い主を今、見ている。私は待ち続けたこの世をやっと安らかに去り、あなたの世に逝ける。主よ、感謝します。」
あなたの人生にも小さいイエスさまは来られた。あなたは確かに見たはずだ。感謝しよう。そしてこの賛歌を唱えて安らかに世を去り、復活の国に入ろう。