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どれほど嬉しいか。神さまにそう言われるのは。
まずイエスさまは「わたしの愛する子」という無条件の愛を聞いた。行いより先に、その存在が肯定された。そのあと「わたしの心に適う者」と宣言されたのだ。
ただしここでは、まだ何も救いの働きをされていない。幼児洗礼のように、何か善い行いをする前に既に「わたしの心に適う」と銘打たれた。なぜか。
村木厚子さんは、冤罪による投獄体験をこう語る。「二人の娘の将来のためにも、諦めないで、今ここで頑張らないといけない、と気付いた時『私は罪を犯していない、大丈夫』と力が湧いてきた。」人には「居場所」だけではなく、誰かのための「出番」が要ると。(JAグループ「わたしのオピニオン」より、https://org.ja-group.jp/about/opinion/1909_1 )
「愛する子」は居場所、「心に適う者」は出番だ。その心は神の計画、イザヤが預言した主の僕の使命だ。神の誠実を果たせなかった旧約の民イスラエルに代わり、民の象徴として神の子自ら計画を遂行する。つまり、諸国民の罪をすべて受けて殺され、一緒にすべての罪を殺して滅ぼし、復活し、新しい赦しの命で諸国民を祝福する。自分の血で新しい神と人の絆を結び、そこにどんな罪人をも入れることだ。
それが「正しいこと」(15節)。倫理道徳ではない。神の計画の実現のために、神の道具となることだ。主イエスは父の愛と共に、父の計画を受けられた。そしてただひたすら父の心に適うように、死にかけた民と連帯して、自らの命を捧げていかれたのだ。
父は洗礼であなたに頼む。「わたしの息子の体になり、今この世で、その続きを実現してくれ。頼んだぞ。」