生きる目的が分からず、苦しみ悩んでいた青年時代、福音書を迎えて「ハレルーヤ」と喜び歌う会衆の中で私は主に出会った。「これこそ自分が人生を捧げる相手!」まだ途上だが、自分を捧げる相手に巡り会えた喜びは今も心に響いている。
占星術師らは「喜びに溢れた。」それは金や乳香や没薬の高価な贈物に表れた「自分の命さえ捧げて良い」と思う相手に出会った喜びだ。今までずっと星を調べて待ってきた。その長い暗闇の時間は決して無駄ではなかった。この方に成就した。
その相手は、古く聖書に予言され、イスラエルの民が待ち望んできた「油注がれた王。」ユダヤ人の王であるだけでなく、東方の博士らが表す異邦人、人類全て、「地上の氏族全て」の王(創12:3)。わたしもあなたも、あの人も、それぞれが自分の全てをこの方に捧げるとき、本当の喜びが溢れる。
これは戦時中の「滅私奉公」ではない。捧げれば捧げるほど自分の命が生かされる、自己奉献の喜びだ。神はアブラハムとの約束を果たし、イスラエルの王イエスの内に、自らの命を私たちに贈られた。十字架と復活で、ご自分の命を捧げられた。この命に預かるのは、どんなに小さくともよい、私たち自身が神に自分の人生を捧げるときだ。
「自らを捧げて行う」聖餐式によって、私たちは変わる。「自分を捧げる相手がいる」喜びによって、「自分を喜んで与える人」に変えられていく。