神の統治が接近している。洗礼者ヨハネは叫ぶ。「マムシの子らよ、悔い改めを実践に移せ。でなければ神の怒りは免れないぞ。」その600年前の預言者ゼファニヤも、エルサレムの裏切りに対して裁きと滅びの「主の日」を語った。
しかし「主の日」の暗い言葉が突如、喜びの歌に変わる。「お前の主なる神は、、、お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」(ゼファ3:17) 元はエルサレム神殿で女性聖歌隊が賛歌を歌う営みから生まれた言葉だ。人間の「ただ中」で神が楽しみ歌っている姿だ。イエスさまは「一同で賛美の歌を歌った。」(マコ14:26)
これは人が幸せな出来事に遭遇し、嬉しくて神に歌うのではない。審きと滅びのような日なのに、神ご自身が私たちの「ただ中」で喜び楽しみ歌っているから、その歌声に変えられて私たちも喜び歌う人に変容していく。歌う神に赦されて変えられていく礼拝人生、聖餐人生だ。
心から喜びの歌を楽しむ、このために神は私たちの「裁きを退けた。」(ゼファ3:15)神は人となり、私たちの裏切りを十字架の裁きの内に引き受けられた。そしてご自分の命、神に結ばれた真の人間性を与えてくださったのだ。だから、「主において、常に喜びなさい。」(フィリ4:4)