
神はアブラハムに「息子イサクを献げよ」と命じた。本当に神は冷酷な殺人を欲し、アブラハムは盲目的に従ったから「信仰の父」なのか。
違う。神は試されたのだ。神はアブラハムを選んで祝福の源にすると約束し、奇跡の子宝を与えて約束の誠実の徴とした。しかしアブラハムはまだ神に誠実を見せていない。だから神と信頼関係で結ばれるために、試練が必要だったのだ。アブラハムは神に誠実を見せつつ、神の誠実を信じた。息子は必ず救われると。だから神は「今、分かった」と彼の誠実を受け、そこで初めて永遠の契りの手応えが得られたのだ。
イエスさまのご生涯も試練そのものだ。荒れ野で、ゲセマネで、弟子に裏切られた十字架の上で。私たち人間の代表として、神に誠実を見せられた。イエスさまの誠実は、不誠実な私たちが神と契りを結ぶための、私たちの誠実だ。 神は盲目的従順を望まれない。試練の日々、神は待っておられるのだ。神の誠実を見つめ、神に誠実を見せ、親しい信頼の絆を結ぶ日を。