人のために祈る
「アブラハムはなお、主のみ前にいた」 (創世記18:22)
人のために祈ると必死になる。朝に晩に、代祷で、分かち合いで、祈る。状況は全く良くならない。「委ねる」なんて綺麗すぎ。でも必死に祈る。「どうかあの人が祝福されますように。」
イエスさまは「執拗に祈れ」と教えた。(ルカ11:8) これは「頑固に自分の願いを押し通せ」ではない。「恥を忍び、自分を捨てて、神に祈れ」だ。「自分で適当に諦めず、最後までわたしに求め続けよ。必ずあの人を祝福するから」と。
アブラハムは悪いソドムのため、恥を忍んで神にしがみつき、交渉し、求め続けた。「正しい人が少しでもいるなら、赦してください」と。この人を通して祝福が全ての氏族に及ぶ。この祈る姿の内に、民の象徴イエスさまが透ける。
イエスさまはアブラハムの祝福の成就だ。「わたしたち」全人類と一体となり、罪の連帯責任をその身に受けられた。恥を忍び十字架につけられ、それでも、わたしたちの祝福を父に乞い願われた。「わたしたちの罪をお赦しください」と。そして復活し、罪を超えた命を与えられた。
「あなたも祈りなさい。あなたの大切な人と一体となり『わたしたちの父よ』と祈りなさい。」
人のために祈ろう。信徒、家族、友人同士、できれば目の前で祈ろう。主はそこに来られる。