ぬぐわれる関係
「手ぬぐいで足をぬぐい始められた」(ヨハネ13:5)
洗足式を皆が体験できるように、主教様の許可を得て、受難物語を読むこの主日に行います。
私自身イヤだった。「自分が先生の足を洗うならともかく、先生が私の足を洗うなんてイヤ。」人に奉仕する自分は強くてかっこいい。でも人に、しかも先生に、自分の汚い足を拭われて奉仕されている自分は、弱くてかっこ悪い。
ペテロも同じ様に言った。(13:6)だがイエスさまは答えた。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何の関わりもない」。(13:8) 足をぬぐわれるとは、一体どんな関係か。
足をぬぐうとき、足の汚れはどこかに消えてなくならない。足から手ぬぐいに付く。裸足にサンダルで歩いてきた弟子ら足の汚れは、先生の腰の手ぬぐいに付いて初めて、きれいになる。
私たちの罪も都合よく消えて無くならない。キリストの体でぬぐわれ、その体に私たちの罪が付き初めて自由になる。ただし代わりに先生は罪人として罰を受け、十字架刑に処される。だから罪の赦しの完成は、主の復活を待つのだ。
洗足式で、主に罪をぬぐっていただこう。罪と命を交換する関係に結ばれよう。そして「手ぬぐい」のような主の愛を謙虚に受け、互いに仕え、愛し合う謙虚な人に変えていただこう。