インマヌエル、メシア、言、などの呼び名は聞くが、ここでパウロはイエスさまを「信仰」と呼ぶ。それが神とアブラハムの子らの歴史に現れた、と。
この「信仰」と訳された「ピスティス」は「誠実、忠誠、信頼」という意味だ。「私がキリストを信じる信仰」よりも先に、神がアブラハムの子らへの祝福の約束を果たされた。人が信じるより先に、神が人を信じた。その現れがナザレのイエスだ。
まず、父なる神はみ子イエスに完全な信頼を置かれた。民の罪を自ら受けて滅ぼし、全ての人を神の子にする使命を忠実に果たしてくれると。
また、み子イエスさまは父の信頼をひしひしと感じていた。神でありつつ、弱さを持つ一人の人間としてその信頼に懸命に応えられた。十字架の死に至るまで忠実に生き抜かれた。「アッバ父よ、この杯を飲まねばならないなら、御心のままに」とゲッセマネで父に祈られたように。父はみ子の応答を良しとして復活させられた。神と人が互いに相手に置く信頼の絆、それが神の子供の資格だ。
そして父とイエスさまは、あなたにも信頼を置く。あなたが共に、神が愛する教会の使命を忠実に果たしてくれると信じて。わたしたちは神に信頼を置かれ、教会を信じ、人を愛し、神に仕える。
不安なときこそ主は語る。「父がわたしに置いた信頼を、わたしはあなたに置く。わたしに忠実に応えて欲しい。大丈夫、わたしが一緒だから。」