「この身をもって、わたしは神を仰ぎ見る」 (ヨブ19 :26)
♪ハーレ・ル・ヤ♪で有名な「メサイア」はこの聖句を「キリストの勝利」として歌う。教会はここに復活の預言を聞く。復活のキリストは私たちを復活させ、その喜びは身体に満ち溢れる、と。
しかしバビロン捕囚期に、人間の苦しみについて書いたヨブ記の著者には、復活信仰はなかった。だから「わたしを贖う方は生きておられる」とは「わたしの代理者が、天の法廷にいる神に自分の理由なき苦しみを、今すぐ訴えて出てくれる」だ。
そして「この皮膚が損なわれても、この身をもってわたしは神を仰ぎ見る」は死後への希望ではない。死ぬ前に、この身体で神を見ることを信じている。重い皮膚病で全身を掻きむしって苦しみ、全ての皮膚を失っても、それでもヨブはその下のこの身、この肉をもって神を見る希望を捨てない。
「この肉を離れて神を見る」という身体からの離脱は誤訳だ。ヨブは死後の世界に逃げない。彼は自分が生きる今この身体こそ、神が与えた似姿であり、神を見る場所だと信じて疑わなかった。イエスさまも自分の身体への希望を捨てなかった。
主イエスは宣言された。「神は死んだ者の神ではなくも生きている者の神だ」(ルカ20:38)神は遠い死後の世界に興味はない。神がイエスの復活によって新たに活かすのは、今生きているあなたとわたし、この身体の命だ。どこか遠い存在ではない。生きる喜びをひしひしと感じるこの身体だ。