20代の頃ある兄弟が、宴席で些細なことに腹を立て、私の頭を叩いた。私はすぐ赦した。だが私は知っている。本当はまだ赦しきれていない事を。そんな小さい事を、司祭になった今も、、、。
イエスさまは厳しい。「小さい者をつまずかせる者は、、、海に投げ込まれよ。」(17:2)だが同時に赦しも与える。「この兄弟が『悔い改めます』と謝るなら、一日に7回でも赦せ」。しかし「どうしても赦せません、どうか私の信仰を増やしてください」と嘆く使徒に、イエスはこう言われた。「からし種一粒の信仰があれば、桑の木に『抜け出して海に根をおろせ』といえば言うことを聞く」。
これは「信仰は何でもできる強い力だ」の意味ではない。「主を信頼するなら、不可能のような赦しも、主が実現させる」の意味だ。海に投げ捨てられる木のような人でさえ、悔い改めるなら主は造り変え、海底で神に根付かせる。あなたが赦す前に、主は十字架によって相手を赦されている。
赦しの杯から主が語る。「まず深く悟れ。赦せないあなた自身が赦されるために、わたしはあなたに十字架と復活で、赦しの命を与えた。だから人を赦すことを大事と気負わず、主人に忠実な僕のように、何事もなくあっさりと実践しなさい。」
私こそ、海に投げられても根づかせてもらった桑の木だ。神から赦しを賜物として頂いた。(2テモ1:6)赦しの杯を飲み、小さな赦しを実践したい。