終わる前に友達に
不正にまみれた富で友を作りなさい (ルカ16:9)
信仰はお金の使い方に表れる。旧約の神は不正な商人を厳しく裁いた。債務者を「靴一足の値で」売買し、もみ殻を混ぜた麦を売る者に、神は言葉さえ与えない、と。(アモス8:4-12)
だがイエスの神は違う。主人の財産を使い込み、解雇を言い渡された管理人は考える。「どうしよう。そうだ、辞めても迎えてくれる者を作ろう。」 そうして主人の借用書を勝手に書き換えて借金を減らし、債務者らに恩を売った。
当然、不正は裁かれる、と思いきや主人は「抜け目のないやり方をほめた」。(8)これは決して不正を認めるのではない。終わりの時の近さを知り、そこから見て必要とされる事を今すぐ実行せよと迫る。管理人は解雇後の居場所を作った。ではキリスト者は、神の国という終わりの時が来た今、金銭と時間をそのために使え、と。
身近に言えば、明日死んで主イエスと顔を合わすなら、今日どんな金銭の使い方をすれば良いか。神の友を作るような使い方は何か、と。
イエスさまは友を作られた。終わりの時、神の国が来る直前、最後の晩餐の席で弟子らを神の友とされた。私たちは今朝その席につく。あなたを神の友とする。そのために神であるイエスさまは全財産、ご自分の命を使い尽くされた。