捨てて初めて
狭い戸口から入るように努めなさい(ルカ13:24)
まるでホラーだ。神の国は宴会で、戸が閉まれば締め出される。「開けて下さい、私は共に飲み食いした者です」と言っても「知らない」と言われる。祝福を約束された先祖アブラハムや、努力して狭い戸口から入った者は感謝して祝う。だが自分は外で泣きわめいているのだ。
責任はしかし主人ではなく自分にある。努力して覚悟して、狭い戸口から入らなかったのだ。
この「泣く人」はアブラハムの血筋でありながら、メシアであるイエスを信じなかったユダヤ人。「入った人々」は信じて自分に死に、主との誓約に結ばれて生きる多くの異邦人だ。
イスラエルの民は「死と契約」を結び、狭い戸口に入らなかった(イザヤ28:18)。「狭さ」は、この世的な力に頼らず、ただ神の誠実に賭けて自分が変えられるために、自分を捨てることだ。
この狭い戸口は十字架の形だ。主と共に自分に死んで初めて、復活の命の宴会を感謝できる。
親から受け継いだ教会生活も、「一緒に飲み食いしました」という陪餐生活も、信仰の狭い戸口には邪魔な荷物かもしれない。死の力と結ばれた自分を捨て、主イエスの命の契約に結ばれよう。主はまだ、誠実さの現れである狭い戸口を開けて、今、あなたを待っておられる。