豊かな空しさ
「実に空しいことだ」 (コヘレト2:23)
何も信じない二十歳の私は、この言葉に惹かれた。「実に空(むな)しい。」常識的な幸せを疑い、生きる意味を探す内に、次第に人生に悲観的になっていった。人はいずれ死ぬ。ならば生きることに何の意味があるのか。「夜も心は休まらない。」(2:23)そんな心をコヘレトの悲観主義が代弁してくれた。
面白いことにイエスさまもこの世的な価値観を否定する。「財産では幸せになれない」。中年になり家族のために貯金したい私には厳しい指摘だ。だが主は「自分のために富を積まず、神の前に豊かになれ」と教える。(ルカ12:21)
この世的価値観を否定するなのは同じだが、コヘレトは悲観的で空しい。しかしイエスさまは父への信頼に満ちている。「この世の命が最後では無い。死が最後ではない。あなたは復活の命でわたしたちを豊かに満たされる」と。
母マリアは死んだ息子を抱いて「やはり死が最後か。空しい、、、。」と悲観的になったろう。心は空っぽだった。しかし空っぽだったからこそ、復活した主は一層豊かにその心を満たした。
心は聖杯の様だ。この世に悲観的になり、空っぽになった時こそ、復活の主は一層豊かにご自分の命を注がれる。コヘレトの空しさは、復活の主に出会う時「豊かな空しさ」に変えられる。