神の赤ちゃん
「慰めの乳房から飲んで」イザヤ66:11 (C年特定9)
母に抱かれる赤ちゃんは救いの譬えだ。弱い裸の命そのままに、母を完全に信頼し、お乳を飲み、体も心も満たされ、抱いてあやされ、育って生きていくための栄養と愛情を受けている。
救いとはそんな状態だとイザヤ66章は、絶望の中から預言する。BC515年に神殿が再建されても形だけの儀式で、国の独立は未だに来ない。そんな絶望から徐々に魂の領域で神の国の到来を待望し始め、実際にメシアが来たのだ。
人間的に甘えて「赤ちゃん返り」するのではない。人としてできることは尽くす。その上で全く新しい神の赤ちゃんに生まれ直すのだ。それをパウロは「新しく創造される」と呼ぶ。生まれ変わるためには「世は私に、私は世に対して、十字架につけられて死んだ」と。(ガラ6:15)
「母なる神」のみ胸では一切の苦しみ、不安、自己否定はない。神はただあなたの苦しみの全てを引き受け、あなたの全てを肯定される。人間は与えられない、主の平和をあなたに飲ます。
神の赤ちゃんの喜びこそ神の収穫、私たちはその平和の道具だ。平和を伝えるのだから、断られたら平和を返して頂き、平和な心で他の人を招く。宣教にエゴは邪魔。ただ神の赤ちゃんとして謙虚に人を大切にすればそれで十分だ。
人間的に甘えて「赤ちゃん返り」するのではない。人としてできることは尽くす。その上で全く新しい神の赤ちゃんに生まれ直すのだ。それをパウロは「新しく創造される」と呼ぶ。生まれ変わるためには「世は私に、私は世に対して、十字架につけられて死んだ」と。(ガラ6:15)
「母なる神」のみ胸では一切の苦しみ、不安、自己否定はない。神はただあなたの苦しみの全てを引き受け、あなたの全てを肯定される。人間は与えられない、主の平和をあなたに飲ます。
神の赤ちゃんの喜びこそ神の収穫、私たちはその平和の道具だ。平和を伝えるのだから、断られたら平和を返して頂き、平和な心で他の人を招く。宣教にエゴは邪魔。ただ神の赤ちゃんとして謙虚に人を大切にすればそれで十分だ。