もてなす
「そばに立って給仕をした」(創世記18:8) C年特定11
主婦の方々からは必ずこう聞く。「働くマルタが叱られ、ただ聞いているマリアが褒められるのは理不尽だ。」(ルカ18:38 -42)しかし主が大切にした「もてなし」は働きに忙殺されて他人にイライラすることではない。もてなして仕える相手の話を、祝福の約束を、深く聴きとることだ。
信仰の父アブラハムはマルタに負けじと大騒ぎして神だと知らずに旅人を気前よくもてなした。それは「あなたがたも寄留者であったから」(出23:9)という居場所なく疲れた人々への憐れみの根拠があったからだ。旅人は自分なのだ。
ただマルタと違い、マリアの様に、アブラハムとサラは料理を出すだけではなく「そばに立って給仕した。」相手の思いと言葉に深く聴き入っていた。もてなしの本質は聴くことだ。
だからこそ彼らは子孫の祝福を約束する言葉を聞きとった。それはキリストの命にまで繋がる祝福の連鎖の最初だ。もちろん老人だった二人は信じられずに冷笑したが、そんな不信仰をさえ超えて主は、祝福の約束を必ず果たされる。
聖餐式ではキリストが私たちの「そばに立って給仕」してくださる。神の約束を果たし、ご自分の命で贅沢にもてなし、私たちの心に聴いておられる。さぁ主の食卓を、喜び囲もう。