力強さに変えられて
「憐れに思い近寄って」(ルカ10:25-37) C年特定10
ゴッホは「善きサマリア人」になろうと、炭鉱の労働者と共に生活し伝道した。しかし晩年は人に評価されず、精神病に苦しみ、病室でこの絵を描いた。だから絵の中の「半殺し」の人は彼自身に、また、力強く抱えるサマリア人は頼りの弟テオか、イエスさまに見えてくる。
あなたは今まで傷ついた時に、誰に救われてきましたか。この譬え話はまず、死にかけた自分を敵が「憐れに思い、近寄って」力強く抱き上げ命を救ってくれた、という出会いと救いと変容の物語だ。衝撃的なことに、それが今まで「混血」とバカにしてきたサマリア人なのだ。
「隣人を愛しなさい」と聞けば簡単に、または無関心に、「なかなかできません」と逃げがちだ。律法学者もそう答えた。「隣人って誰?」と。
しかし自分を救って「隣人」となってくれた方を想うたび、私たちはその方の全身にみなぎる「助けなきゃ」という力強さに変えられる。
愛するとは「愛せない」隣人への感情を、優しい「愛してる」に変えることではない。感情なんてどうでもいい。助けることだ。傷ついた人に近寄り、力強く支え、「隣人になる」行いだ。
私たちが隣人となれば、イエスさまは私たちを通して、その方の隣人となられるのだから。
あなたは今まで傷ついた時に、誰に救われてきましたか。この譬え話はまず、死にかけた自分を敵が「憐れに思い、近寄って」力強く抱き上げ命を救ってくれた、という出会いと救いと変容の物語だ。衝撃的なことに、それが今まで「混血」とバカにしてきたサマリア人なのだ。
「隣人を愛しなさい」と聞けば簡単に、または無関心に、「なかなかできません」と逃げがちだ。律法学者もそう答えた。「隣人って誰?」と。
しかし自分を救って「隣人」となってくれた方を想うたび、私たちはその方の全身にみなぎる「助けなきゃ」という力強さに変えられる。
愛するとは「愛せない」隣人への感情を、優しい「愛してる」に変えることではない。感情なんてどうでもいい。助けることだ。傷ついた人に近寄り、力強く支え、「隣人になる」行いだ。
私たちが隣人となれば、イエスさまは私たちを通して、その方の隣人となられるのだから。