しるし
「しるしを見せてください」 (士師記6:17)
そう願うのは「神に呼ばれた」こと自体が
信じられず、勇気も自信も欠けらもないときだ。
ギデオンは英雄だ。強大な敵を勇猛果敢に打ち破った。だが初めは酒ぶねの中に隠れる臆病者だったのだ。それを主が「勇者よ」と呼んだ。それでも召命を信じられないギデオンは「しるし」を求めた。応えて主は彼の祭壇の献げ物を炎で舐め尽くしてしるしを示した。やっと信じ始めたギデオンは、勇気を振り絞って民を救う。
力強い説教と殉教で初代教皇となったペテロも、初めは徹夜の不漁で挫折感に打ちのめされた漁師だった。だが主は、魚さえ獲れない彼を「人間を獲って生かす漁師」と呼び、大漁のしるしを与えた。これを神が共にいるしるしと信じたペトロは魚も船も手放して、付いて行った。
障がい者だったパウロも同じ。「肉の棘」は「わたしの恵みはあなたに十分」という主の言葉を聞く機会となった。主が共にいるしるしだ。
私たちもしるしを祈り求めてよいのだ。神を試してはならない。だが謙虚に祈り求めるなら、神は気前よく与えてくださる。ただし、神が共にいるしるしは、信じる者にしか見えないのだ。
神は今朝もあなたにしるしを与える。祭壇のご聖体の内に、炎の様に燃えるご自身の存在を。