和解に貫かれて 創世記45:5
「悔やんだり、責めあったりする必要はない。」
「罪を赦しなさい」とイエスさまは教えられた。(ルカ6:37) 素敵だ。だが実際に傷つけられた「あいつ」の事になるとそれは、出来ない。
また私自身にも後悔し、赦しを乞う罪がある。
兄弟たちから見れば、原因はヨセフにある。父の寵愛のお陰で高慢になったからこそ、妬まれてエジプトに売られたのだ。しかし以後20年、父の嘆きに諭されるように兄弟は弟を売った罪を後悔し、自分たちを責めてきた。重い。
そして20年後の飢餓の年、大臣となったヨセフの前に食料を乞う兄弟たちが現れた。その時ヨセフは「目には目を」と復讐して当然だった。飢え死にさせるか、奴隷にして当然だった。
しかしヨセフが選んだのは赦し。「悔やんだり責めたりしなくていい。命を救うために神がわたしを遣わしたのだ。」(創45:5) そしてヨセフ自身も赦すことで和解の命に与り、抱き合って泣いた。こう出来たのは彼自身苦しんだからだ。奴隷となり、策略によって投獄され、高慢な自我が砕かれた。そして主に頼り、主に赦され、和解を渇望するようになったからだ。全ての出来事を貫いていたのは、神の和解の働きだ。
十字架の主イエスは、人生を貫いて、和解を働かれる。私たちはそれに変えられて、良い。