説教の声は自然と大きくなりがちだ。マイクもないし、難聴のかたもおられるし、熱く語るので余計にそうなる。
しかし人間関係で「声が大きい」ときは、主の聖霊に反するとイザヤは言う。力で自分の意見を人に押し付ければ、「傷ついた葦」のような心を折り、「暗くなっていく灯芯」のような自信を消すことがある。それも「良かれ」と思って。私の牧会上の失敗は大体がこれにあたる。
イザヤ自身の召命と挫折が込められた「主の」の歌では、聖霊は無言のしかし無限の優しさだ。王様キュロスのように自らの権力を街頭で宣伝せず、主の僕は「叫ばず、呼ばわらず」ただ無言で弱い者と一致する。「あなたはわたし」と。どこまでも他人の傷と暗さに一致する。たが主に守られて決して「暗くなることも傷つき果てることもなく」、救いを導き出す。(42:4)
ここを弟子が読んだ時、心に主イエスさまが現れた。無言で、色んな罪人と過ごされた主。無言で、栄光どころか暗く傷つき死なれた主。しかし主に守られて復活し、命と赦しを導き出された主。「主の僕とは、あの先生のことだ!」と。
洗礼とは自分に死ぬ恵み、聖霊とは無言の言葉だ。何も言わず、ただ静かに相手の心に聴き、相手に愛を伝え続ける。今も、主は、あなたに
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無言の言葉「彼は叫ばず、呼ばわらず」イザヤ42:2 (C年顕現後第一主日・主イエス洗礼日)
2019/01/13